乗り鉄歴25年の筆者が語る もう一度乗りたかった追憶の列車たち(西日本編)…419系、はやとの風、ムーンライトながら

はじめに

この記事は以下の記事の続きです。

青春18きっぷ旅行者の強い味方「ムーンライトながら&373系普通列車」

学生の休暇期間中、普通列車が5日間乗り放題となる「青春18きっぷ」、そのお供として愛用されたのが「ムーンライトながら」です。今と違って格安の高速バスが発達していなかった90年代、特急並みのシートを持つ373系(日中は特急で使用されています:画像は「伊那路」充当時のもの)に510円の指定席券のみで乗れるということで、高い支持を得ていました。帰省シーズンは満席で、深夜でも立ち客が出るほどでした。末期は臨時列車化され、写真の183系や185系が使用されていました。

一方、当時は夜行を使わず昼行の普通列車のみで東海道を行き来する学生も相当数いました。(最近はどうなんでしょう?)彼らが愛用したのが東京~静岡間で一日一本のみ運転される373系使用の普通列車。静岡の車庫から「ながら」の車両を東京に送り込むための列車で、快適なシートに長く座れるとあって私もたびたび乗車したものです。

北陸本線縦断紀行

国鉄の苦しい財政事情が生み出した魔改造「北陸本線419系」

前回の記事でも触れた寝台特急電車583系は、国鉄末期に東北新幹線が開業したことにより大量の余剰が発生しました。一方、地方路線ではサービス向上のため普通列車用電車の追加製造が必要となっていましたが、財政難によりなかなか進捗していませんでした。そこで編み出されたのが、「583系を普通列車用に改造する」という荒業です。583系自身もやや老朽化していたためあくまで短期間の「つなぎ」として改造は最小限とされました。その結果、編成短縮のため追加された運転台は「食パン」と綽名されるのっぺりとしたものとなりました。車内に関しても、シートや格納された寝台は原形のまま残る一方、一部座席や洗面所などは撤去の上でロングシートや立ち席スペースとなり、いかにも急造といったちぐはぐな内装が特徴的でした。ドアは特急用の狭い折り戸のままだったため乗降はしにくく、なるべくラッシュの激しい列車には当たらないよう運用されていたようです。かつては東北・九州でも走っていましたが、当初構想通り90年代には消滅しました。一方、北陸本線の419系だけは想定よりも長く残り続け、2011年まで運用されていました。乗客としては特急用の広いボックスシートに座れるということで、「乗り得」な列車ではありました。

北陸本線縦断紀行

京阪間ノンストップ特急のエース「阪急6300系」

京都~大阪間の輸送は、昭和の頃から国鉄の新快速と阪急・京阪の特急が三つ巴の争いを繰り広げていました。そんな中、1975年に阪急が京都~大阪間ノンストップの特急用に投入したのが6300系です。2ドア・転換クロスシートというコンセプトは従来の車両と同じであるものの、乗降ドアを車体端に配置することで客室スペースを広げた設計が特徴的でした。7個(先頭車は6個)の連窓がずらっと並び、それに合わせてクロスシートが配置された車内はまるで有料特急のようでした。車体上部の白帯や、前面の銀色の飾り帯も当時は6300系のみに施され、目立つ存在でした。混雑時を想定してデッキには補助いすも装備していましたが、これが意外に乗り心地が良く、梅田から河原町まで座っても全然苦になりませんでした。しかし、阪急は特急の停車駅を増やし中間駅の利便性を高める方針に変更、乗降のしずらい2ドアの6300系は次第に敬遠されるようになり、老朽化も進んでいたことであっけなく引退となりました。現在は嵐山線のほか土休日の「京とれいん」にも投入され、往年の走りを見せています。

阪急6300系よ、永遠に(その1)

冬の日本海と餘部鉄橋が魅力だった山陰本線経由の客車「出雲」

(写真は特急「富士」にて撮影)
(写真は後日訪問時に撮影)

現在も残る「サンライズ出雲」とは別に、かつては山陰に向かう「出雲」がもう一本走っていました。「出雲」は昔ながらのブルートレイン客車を使用し、京都から一部非電化の山陰本線を出雲市まで延々と走りました。「サンライズ」より米子や松江への到着時刻は遅く、主に兵庫県北部や鳥取県内の利用が多い印象でした。私は2003年の暮れに「出雲」に乗車したことがあります。個室寝台も連結されていましたが繁忙期ゆえ予約が取れず、開放式B寝台の上段で夜を明かしました。13時間もの長旅でしたが、フリースペースとなった元食堂車から餘部鉄橋を眺めたり、浜坂で積み込まれた「かに寿し」を賞味したり、米子駅での機関車の付け替えを眺めたりしているうちにあっという間に時間は流れ、退屈しなかったのを記憶しています。

中国地方JR乗りつぶし:一日目―寝台特急「出雲」と木次線と急行「みよし」

夜の東海道を続々と駆け抜けた「九州行き寝台特急」

今となっては信じられないような話ですが、かつて夕刻の東京駅では「さくら」「はやぶさ」「富士」「みずほ」「あさかぜ」といった九州行き夜行が通勤電車に交じって次々と発車していく光景が見られました。それが1990年代に入るとみるみる縮小し、2009年には最後に残った「はやぶさ・富士」も消滅してしまいました。私は2007年、末期の「はやぶさ・富士」に乗ったことがあります。個室寝台「ソロ」は快適でそこそこ賑わっているようでしたが、他の車両(特に開放式B寝台)は金曜夜にもかかわらずガラガラな上、洗面台・デッキは国鉄時代そのままの状態で放置され、廃止に向けてもはや打つ手なしという悲壮感をひしひしと感じました。

「はやぶさ・富士」と瀬戸内海めぐり

豪雨災害で消えた日本一の橋梁「高千穂鉄道」

高千穂鉄道は旧国鉄高千穂線を第三セクターに転換してできた路線でした。高千穂は非常に地形が急峻で、途中の高千穂橋梁は水面からの高さが実に100m程もあり、これは日本一の高さを誇っていました。 列車は観光サービスのため橋の中間で一旦停車してくれ、景色をじっくり眺めることが可能でした。窓から下を眺めると、水面がはるか下に見え迫力に圧倒されたのを覚えています。そんな高千穂鉄道ですが豪雨災害により甚大な被害を受け、廃線に追い込まれてしまいました。現在でもトロッコで高千穂駅から高千穂橋梁まで走行できるようです。災害後しばらくして延岡駅を訪れると、豪雨で取り残された気動車がぽつんと放置されており哀愁を感じました。

山口・九州乗りつぶし:四日目―九州新幹線と三セク3線乗車&フェリーで帰京

JR九州観光列車の完成系だった「SL人吉」

JR九州では長らく豊肥本線に「SLあそBOY」というSL列車が運行されてきましたが、SLの老朽化により一旦廃止となりました。その後、SL復活の大規模なプロジェクトが立ちあげられ、大規模な修繕によりSLが復旧し、走行区間を急勾配の少ない肥薩線に変更して「SL人吉」として運行されることになりました。復活に際し、客車にはおなじみの「水戸岡改造」がなされ、先頭部にガラス張りの展望席が設けられるなど斬新な車体に生まれ変わりました。SLに乗れるだけでもファンにはうれしいことですが、木をふんだんに使用した贅沢な車内でおいしい弁当やシャーベットが供され、停車駅では特産品の直売会が行われ、古い駅舎とSLを組み合わせた写真も撮れる、とファンにはたまらないイベントが数々用意されており私は大いに満喫しました。肥薩線の豪雨災害で運休を余儀なくされ、運行再開が見通せない現在は鹿児島本線などで細々と走っているようですが、いつか肥薩線に戻ってくることを信じています。

九州、D&S列車の旅:二日目―SL人吉、いざぶろう、はやとの風と桜島フェリー

名物駅弁とレトロ駅舎が花を添えた「はやとの風」

「はやとの風」は鹿児島中央から肥薩線の吉松に至る特急列車でした。沿線には目立った観光地はあまりありませんが、車窓の方は色々楽しめます。まず、列車は鹿児島を出るとすぐに錦江湾ぎりぎりに沿って走ります。海の眺めを満喫すると隼人に到着、肥薩線に入ります。吉松までの肥薩線は勾配が険しいという点以外は特に特徴のない路線ですが、途中の大隅横川や嘉例川といった駅には明治期の古い駅舎が残っており、停車時間が多めに取られていて見学ができました。中でも嘉例川などは「はやとの風」の登場を契機に知名度が上がり、自動車でわざわざ訪問する客もいるようでした。そして、「はやとの風」一番の名物が「百年の旅物語 かれい川」という駅弁です。地元野菜をふんだんに使い、手作業で作り上げるという逸品で、私が数々の駅弁を食べ歩いた中でも3本の指に入る名作だと思っています。列車は廃止となりましたが、駅弁は嘉例川駅での販売が続いているそうです。

九州、D&S列車の旅:二日目―SL人吉、いざぶろう、はやとの風と桜島フェリー

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